南米大陸のアルゼンチン、ブラジルの二国にまたがる、世界三大瀑布の一つ。イグアス川の下流にある。この滝を含むブラジルのイグアス国立公園とアルゼンチンのイグアス国立公園は、ともにユネスコ世界遺産に登録されている。最大落差80メートル以上。270以上の滝がおよそ3qにわたって連なる世界最大の瀑布。「悪魔の喉笛」(Garganta
del Diablo)が最も迫力があり有名な観光名所となっている。歩いても船でもヘリコプターでも観光できる。イグアス(Iguazu)とは先住民の言葉で大いなる水(Y
Guazu)という意味。滝があまりに巨大なため、周りのジャングルには独特な生態系が広がり、希少な動植物も数多く生息しており、自然の楽園となっている。
1984年 自然遺産登録 アルゼンチン・ブラジル
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イグアスの滝 自然遺産
この優美なアーチは、花崗岩でできた古代ローマの水道橋で、スペイン中部にあるセゴビア州の州都セゴビアのアソゲホ広場を横切っている。1
世紀後半に造られたこの水道は、今でも付近の山々から都市の北部に水を送っている。
紀元1世紀ごろに造られた水道橋。スペインの水道橋としては最大の規模。全長728mにおよぶ。
セゴビアはマドリードからの日帰り観光地として人気がある(マドリードからは鉄道で2時間)。旧市街は長く狭い高台の上に壮大に位置している。大聖堂、古代ローマの水道橋、美しいおとぎ話にでてきそうな古城(アルカサル)などの名所があり、眼下には田舎の景色が広がっている。
ローマ水道橋は,14キロはなれたフリオ川から水を引いています。2000年も前に,標高1000メートルの街に水を引こうとしたローマ人の知恵と,接着剤をいっさい使わない土木技術は驚くべきものです。
1985年世界遺産登録(スペイン)
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ゼゴビアの水道橋
アンデス山中にあるマチュ・ピチュは、周囲を渓谷や高峰にかこまれてすばらしい景色をつくりだしている。アメリカの探検家ハイラム・ビンガムが1911年に発見するまで、3世紀以上その存在はわすれられていた。山の斜面に段々畑がつくられ、比較的なだらかな所に広場、宗教区、居住区などがある。居住していたのは1500人程度であったといわれる。
ペルーのクスコの北西約80kmのアンデス山中にあるマチュ・ピチュ(=老いた峰)遺跡は、世界六大文明の一つ、インカ文明の代表的な都市遺跡である。標高2400mの高地に造られたこの都市は、「インカの失われた都市」とか「空中の楼閣」と称されており、未だ多くの謎に包まれている。
1532年、スペイン人がインカ王朝を破った後も、マチュ・ピチュは深い山の中にあったことから発見されず、破壊の災難を逃れた。しかし、そのために、1911年にイェール大学の考古学者ハイラム・ビンガムがこの遺跡を発見するまで、400年間も人類から忘れ去られたままであった。 現在、最も人気の高い世界遺産の一つである。
1983年世界遺産登録(ペルー)
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マチュ・ピチュ
幻想的な姿でヤムナー川に佇むタージ・マハル廟は、世界中で最も美しいイスラム建築と言われている。1526年、インドにイスラム王朝ムガール帝国が誕生し、それまでのヒンズー文化との融和を図りながらイスラム教国家を造り上げた。ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハンは、37歳の若さで世を去ってしまった王妃ムムターズ・マハルのためにタージ・マハル廟を建設した。建設のために世界中から2万人の職人が集められ、着工から20年の歳月を要した1654年に完成したタージ・マハル廟は、純白の大理石に埋め尽くされ、繊細な装飾が施された白亜の霊廟となった。廟を取り囲むように4本のミナレットが立ち、東西には迎賓館とモスクが並んでいる。シャー・ジャハンは、ヤムナー川の対岸に黒大理石の自身の廟を建設しようとしたが、国家財政の悪化によって叶わぬ夢に終わってしまった。
1983年 文化遺産登録 インド
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タージ・マハル
曳船道(マルヌ河の岸辺、荷を運ぶ小道) パリのポン・ヌフ 1902年
初期を代表する作品のひとつ(1864年) 晩年を代表する作品のひとつ
ブーケと青の村
”シャガール・ブルー”と呼ばれる青を基調に生涯のテーマである
花束と恋人同士を、帰れなくなった故郷ビテブスクの村への郷愁の
中に描き出した名作です。
ギャラリー
ターナー最晩年の作品です。(ブルー・リージ 1845)ターナーの水彩画最高
傑作ともいわれている作品です。
私の好きな画家の作品です。よろしかったら息抜きにご覧下さい。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(Joseph Mallord William Turner, 1775年4月23日
- 1851年12月19日)
18世紀末〜19世紀のイギリスのロマン主義の画家。イギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の一人である。1775年ロンドンのコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごす。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし、絵画の基礎を学ぶ。
マートンの元で1年ほど修業したターナーはロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年、27歳の時には同・正会員となる。
初期の作品は17世紀オランダの海景画や、クロード・ロランらの影響を受けたものが多い。1791年最初のスケッチ旅行。以降およそ50年間にターナーは国内だけでなく
フランス、スイス、イタリー、オランダ、ドイツなど大陸の各国を含め30回以上旅行する。よく『旅の画家』と称される所以だが、特にイタリーの光と大気はターナーの後期の作風に大きな影響を与え、印象主義の先駆けとなったことは
良く知られている。
J.M.W.ターナーはイギリスの美術史上最も偉大な画家とされています。風景画家として、イギリスやヨーロッパ大陸の風景を油彩や水彩で描き、それぞれが高い評価を受けていますが、とりわけ水彩画の分野において卓抜した業績を残しています。今日の水彩画家の用いているテクニックでターナーが用いなかったものはないといわれるほど、水彩画の技術の発展にも寄与しました。
マルク・シャガール Marc Chagall (1887-1985)
ユダヤ人としてロシアの寒村に生まれたシャガールは、故国にあっても自らの民族を意識せざるを得ませんでした。
またパリでは異邦人として制作し、ようやく取得したフランス国籍はナチス・ドイツによって剥奪され、亡命を余儀なくされます。彼は民族と国境の間で彷徨いながら、画家として大成していきました。
その長い画業の中で、シャガールは繰り返し自画像を描きました。それは激動する社会の中で、画家としての自分を見失わないための努力の跡のようにも見えます。
ロシア、現在のベラルーシ共和国にある寒村ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれ、帝都ペテルブルグの美術学校で学ぶ。1910年から14年までパリに住み、詩人サンドラール、アポリネールらと親交を結ぶ。キュビスムの空間的効果、ドローネーらの鮮烈な色彩表現に影響を受けたが、子供の頃の記憶からイメージを引き出し、詩的で豊穣な、シャガールならではの幻想的な様式を展開。1914年、ベルリンの表現主義の牙城シュトゥルム画廊で個展を開催、その後も同画廊と関係を保ち、ドイツ表現主義の運動に影響を与える。二度にわたる世界大戦の戦火や、ヨーロッパ中を踏みにじったナチ政権によるユダヤ民族迫害、アメリカへの亡命、制作の霊感の源であった愛妻ベラの死去など、さまざまな苦難を乗り越えて画業を深め、世界中の人々に愛と希望を与え続けた。1950年から南仏のヴァンスに定住し、晩年にいたるまで旺盛な制作意欲を発揮したが、1985年に惜しまれつつ逝去。享年97歳。
ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille
Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)19世紀フランスの印象派画家
1830年、カリブ海に浮かぶ小島セント・トーマス島で生まれる。名前からわかるようにユダヤの血筋、ピサロの両親はボルドーからこの地に来て雑貨店を営んでいた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。しばらくは家業を手伝っていたが、画家志望を断ち切れず、1855年に再びフランスに戻る。
名前をカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)と綴りをも変えてユダヤ系の出自を封印した。
パリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に感銘を受け、特にコローの作品には感動したらしく、実際にこの先輩画家のもとを訪れたしている。パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。(普仏戦争:1870年〜1871年プロイセンとフランス間で行なわれた戦争、スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦)
ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで、毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家。
印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をしていた。ピサロは1885年頃からシニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、風景だけでなく、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。
豊かな色彩を用い大胆に筆触を残す描写法や、温柔で闊達な表現、ギュスターヴ・クールベに倣うパレット・ナイフを用いた絵画技法などによって農村風景等を描き、印象派を代表する画家として現代でも非常に高く評価されている。
17世紀半ば、神童・モーツァルトが生まれた街、オーストリアのザルツブルク。贅を尽くした大聖堂や、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台ともなったミラベル宮殿、難攻不落を誇るホーエンザルツブルク城など10世紀以降に築かれた華やかで重厚なバロック様式の建造物が建ち並ぶ。中世の趣を今に伝えるこれら建築物の数々や、「北のローマ」と誉め讃えられる旧市街の街並みが、世界遺産に登録されている。
ザルツブルクはドイツとの国境に隣接する山間にあり、旧市街の広さは、わずか1キロ四方にも満たない。なぜこのような辺境の地に、ひしめくように豪華な建築群が建てられたのか。ザルツブルグとは塩の城という意味。古代よりこの近辺で岩塩が採掘され、その集積地であったこの町は繁栄した。ホーエンザルツ城という、堅牢な要塞に守られた美しいバロック建築がここに花開いている。
1995年世界遺産登録(オーストリア)
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古都 ザルツブルク
